プロフィール

「つるてんブログ」について

はじめまして、つるてんです。

「つるてんブログ」は、鈍足マラソンランナーである僕・つるてんが運営する、「ランニング」「マラソン」をメインテーマとしたブログです。以下のような読者を想定しています。

想定読者

  • ダイエットのために、ランニングに取り組みたい。
  • 健康増進のために、ランニングを習慣化したい。
  • フルマラソンにチャレンジして、完走したい。
  • フルマラソンでサブ5(4時間台)、さらに上のサブ4(3時間台)を目指したい。
  • タイムよりも、マラソンを走ること自体を楽しみたい。

※速いランナーの読者は、残念ながら想定外です。ごめんなさい。

スローガン

走ろう。成長しよう。じぶんの人生を生きよう。ゆっくりと、マイペースでね。

運営ポリシー

ランニングやマラソンを走るためのノウハウは、日進月歩と言いますか、WEB上にあれこれ情報が錯綜しています。

そこで、本ブログは、あくまでも僕が経験したこと、考えたこと、試行錯誤したことをベースに展開していきます。正しいか否か、ではなく、成長するためにもがき続けている鈍足マラソンランナーの体験談として、お読みいただけると幸いです。そして、僕の体験が、読者のあなたの刺激になったり、お役に立ってくれたら、こんなにうれしいことはありません。

運営者「つるてん」とは

菊地智彦(ペンネーム:つるてん)

1965年(昭和40年)東京生まれ。山羊座のAB型。愛妻・ゆかりっちと福島県でふたり暮らし。夫婦でなかよく走っています。

好きなこと・もの/ランニング、マラソン、旅行、温泉、グルメ(焼肉・ラーメン・麻婆豆腐・スイーツ・寿司)、ラグビー、スポーツ観戦、読書、投資、競馬、人生実験など。

信条/「人生なるようになる」

人生の目標/「生涯、マラソンランナーである続ける」

マラソン全成績

※随時更新します

日時 大会 距離 タイム 備考
2022.11 ニューヨークシティマラソン フル DNF 5km地点で棄権
2022.10 山形まるごとマラソン ハーフ 2:19:23
2022.8 北海道マラソン フル DNF 35km地点で棄権
2022.7 函館マラソン フル DNF 30km地点で棄権
2020.2 京都マラソン フル 5:07:51
2019.12 奈良マラソン フル 4:55:39
2019.11 ニューヨークシティマラソン フル 4:44:17
2019.8 北海道マラソン フル 5:00:08
2019.5 仙台国際ハーフマラソン ハーフ 2:11:50 PB
2019.3 東京マラソン フル 4:44:05 PB
2018.12 青島太平洋マラソン フル 4:49:56
2018.11 福岡マラソン フル 4:57:03
2018.10 金沢マラソン フル 4:59:32
2018.9 オホーツク網走マラソン フル 5:16:01
2018.4 高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソン ハーフ DNF 17.3km関門で終了
2018.3 ロサンゼルスマラソン フル 6:27:18
2018.2 愛媛マラソン フル 5:36:25
2017.12 ホノルルマラソン フル 6:29:49
2017.10 富山マラソン フル 5:37:58
2017.7 函館マラソン フル DNF 27kmで途中棄権
2017.3 名古屋シティマラソン ハーフ 2:17:17
2016.12 いちごトレイルラン 20km 2:54:58
2016.12 青島太平洋マラソン フル 4:59:31
2016.9 シドニーマラソン フル 5:18:32
2016.6 安曇野ハーフマラソン ハーフ 2:28:05
2015.12 ホノルルマラソン フル 6:13:47
2015.8 伊達ももの里マラソン 10km 1:05:41 PB
2015.7 ゴールドコーストマラソン フル 6:16:50
2014.12 ホノルルマラソン フル 7:00:29
2013.12 ホノルルマラソン フル 9:26:50

ヒストリー

*長文ですが、お許しください。

東京五輪の翌年、長男として新宿区新大久保に生まれる。母親の胎内で、僕はへその緒を首に巻きつけており、大変な難産だったと聞く。

保谷幼稚園に入園。年長のとき、初めて恋に落ちる。相手は、ワタナベ先生。今でも、おぼろげだが、顔を憶えている。ませガキだった。

小学校に入ると、早くも天賦のリーダーシップを発揮しだす。学校では学級委員、少年野球ではエース。広島カープが好きで、外木場に憧れ、背番号は14。カーブとシュートが武器のサウスポーとして、保谷ストロンガーズで腕を鳴らす。

学校の成績もよかった。母親は「すえは医者か、外交官か」と大いなる勘違いをしだす。しかも当時の我が家には、塾に通わせる経済的な余裕はなかった。それでも小6の冬、無謀にも、東京大学附属中学校を受験。試験は合格するものの、抽選で入学できず。あのときの母親の落胆ぶりは、今でも忘れない。

中学校に上がると、ついたあだ名は「つるてん」。ヘアスタイルがスポーツ刈りだったからだ。先輩のシゴキが厳しいと噂だった野球部には入らず、サッカー部に入部。しかし、サッカーは僕には向いていなかった。気がつけば、いつのまにか、帰宅部に。悪い友だちもできた。

中学3年の春、両親が離婚。八王子の家庭裁判所に行った。僕と弟は、母親と暮らすことになった。父親はいつの間にか、僕らの目の前から姿を消した。離婚の理由はよくわからなかったが、母親には何も聞かなかった。

高校は、東京都立保谷高等学校に進学。僕の内申点と偏差値からして落ちるはずのない学校だったが、本番の勝負弱さが出た。なんとか、補欠合格ですべりこむ。しかし、入学直後の校内の学力試験では、持ち前の負けず嫌いで、学年2位に。「お前は、やればできる!」と母親を安心させる。

しかし、高校2年の夏、突如、映画をつくることに目覚めた。きっかけは文化祭。僕は高橋三千綱原作「九月の空」を自ら脚色し、メガホンを取った。2学期が始まっても、学校には行かなかった。親が開業医だったH君の別宅に泊まり込み、撮影・編集に集中した。登校したのは、文化祭初日。完成ホヤホヤの8mmフィルムを抱えて、H君の運転する50ccのモンキーで駆けつけた。映画「九月の空」は、その年の保谷高祭の優秀賞を獲得。その後も部活、麻雀、バイト、勉強以外のあれやこれや夢中になり、青春を謳歌する。

高校はなんとか卒業できた。世界史と日本史の授業はほとんど出た記憶もなく、落第ギリギリ。そんな状況では、現役大学合格は無理と判断し、1カ月肉体労働に励み、予備校の学費を稼ぐ。河合塾千駄ヶ谷校東大コースに進むも、成績は後ろから数えて2番目。次第に、予備校からは足が遠のき、名画座通いにハマる。

19歳の春、一浪の末、早稲田大学第二文学部に入学。マクドナルドのスイングマネージャー、家庭教師、塾講師、人材派遣会社の営業、農作業、温泉旅館の調理補助などなど、数々のアルバイトに明け暮れる日々。大学4年、卒論さえ書けば卒業できたにもかかわらず、リクルートにアルバイトとして入社する。ちょうど、リクルート事件で世の中が大騒ぎしていた時期だ。

リクルートには、いい仲間がいた。仕事は、求人広告の企画・制作。企業や社長に取材し、広告をつくる。とても刺激な仕事だった。僕の仕事人としてベースは、ほぼすべてここで培われたといっていい。在籍した4年半、僕はよく遊び、よく飲み、よく仕事した。大学からはすっかり足が遠のき、大学は7年で抹籍になる。

26歳の春。「正社員としてまっとうに生きてくれ」という母の声に、僕はとうとう観念した。就職したのは、東京・神田にある小さな広告代理店。仕事は営業で、某大手ハウスメーカーを得意先に、雑誌広告の扱いを主にしていた。というと多少聞こえはいいが、広告原稿を制作会社、得意先、出版社へとただ運ぶだけの仕事だ。正直、退屈していた。

27歳。エイプリルフールに朝日新聞に掲載されていた、「十勝毎日新聞社 コピーライター募集」の求人広告を見つけた。「北の国から」フリークだった僕は、「東京は卒業だ」と友人たちに宣言し、その年の夏、縁もゆかりもない北海道・帯広へ単身渡った。青春18きっぷを使い、ローカル線を乗り継いでの北帰行。帯広駅に着いたのは、東京を出てから4日目の昼。飛行機であれば90分ほどで移動できるのに、なぜ、鉄道かって? それは北の国で、男ひとり生きていく覚悟を決めるために、必要な時間と作業だったと思う。

それから14年間、北海道・帯広で暮らした。
だけど、最初の3年間はつらかったな。ある日突然、東京から単身渡ってきたコピーライターをみんな好奇心と警戒心の眼で見ていたから(後日談だが、東京からすごいコピーライターがやってくると噂だったらしい)。僕にひとこと相談すれば、うまい宣伝文がサクサク出てくると思っていたみたいだったし、ローカルな地域社会や人間関係にもうまく馴染めなかったから、孤独だった。それに、氷点下20℃にもなる冬はやっぱり体にこたえた。

それでもしばらくすると、僕は北海道での暮らしのペースをつかみはじめた。もう無理にローカルに馴染もうとするのをやめた。休みはひとり車であちこち出かけ、北海道の温泉は、ほぼすべて入湯した。亡くなる前のシンザンをはじめ、サラブレッドの牧場を訪ねては写真を撮った。大雪山や知床にも足を延ばし、草花や鳥の名前もずいぶん憶えた。

十勝毎日新聞社では、いろいろな仕事を経験させてもらった。全15段(1ページ)、30段(2ページ)などの大型紙面の特集企画からインタビュー、フリーペーパーの編集長、「まんぷく十勝」という雑誌創刊、講演会などのイベント主催企画などなど。地域密着のメディアだったから、何かおもしろい企画を仕掛けると、ビンビン反応が返ってくる。「十勝36万人クイズ」という紙面企画を実施したときは、各役場に読者からの電話が殺到して、市町村から「もうやめてくれ」って怒られた(笑)。十勝じゅうのソフトクリームを食べつくそうという趣旨で立ち上げた「十勝ソフトクリームラリー」は、いまや夏の風物詩になっているそうだ。地域を元気にする仕事に、僕は手応えと喜びを感じていた。30歳を過ぎると、編集長やら副部長、室長と肩書きもつくようになり、ますます仕事にのめり込んでいった。

37歳の、春のとある朝。東京の弟からの電話が鳴った。母親が、倒れた。病名は、脳幹出血。いま集中治療室にいて、危ない状態だという。その朝、仕事から帰った弟が、居間で血を吐いて横たわっている母を見つけたのだった。電話を切った僕は仕事の段取りをし、午後の東京便に乗った。当時、帯広→東京間は一日4便しかなかった。病院に着いたときには、もう空は暗くなっていた。ずいぶん遠いなと、ふと思った。

母の小さな体が集中治療室の白いベッドの上で、ぐったりとしていた。ここ数日が山だから、会わせたい人がいたら早めに連絡をとるようにと、看護婦さんから言われた。一旦、実家に戻り、親戚に電話をした。それから弟が、別れた父親にも連絡をしたほうがいいんじゃないかと言った。弟は母とずっと一緒に暮らしていたが、何度か家の近所で父親の姿を見たことがあるという。父と母は、ときどき会ってたんじゃないかな、とも。夜も更けていたが、僕は弟を連れて、父親の姿を目撃したという場所に行って、そのあたりの表札を見て回った。父の家は、意外なほど、簡単に見つかった。実家から歩いて15分ほどにある、古びたアパートの一室だった。父と子の22年ぶりの再会。僕は母が倒れたことを告げた。

翌朝、僕と弟が病院に行くと、父は病院の入口で背筋を延ばし立っていた。まるでお屋敷を護る門番のように。僕が「入らいないの?」と聞くと、父は「オレは、入っていいのかな」と答えた。「入りなよ」と言って、父の腕を強引につかみ、病院の中に入れた。集中治療室の前でも、同じやりとりだ。まったくいい大人が、面倒くさいったら、ありゃしない。その後も父は毎朝、病院にやってきた。母が一命をとりとめ、一般病棟に移ってからは、父は朝から面会時間終了まで、ずっと母に付き添っていた。僕は母の病状のこと、今後の治療方針や生活のこと、治療費のことなどを医者やソーシャルワーカー、行政に聞いて回り、今後のことを考えた。見舞いに来てくれた親戚の対応にも、追われた。2週間もすると、いろいろなことが少しずつ落ち着いてきた。残してきた仕事も、気がかりだった。母のことは一旦、父と弟にまかせて、僕は北海道に帰ることにした。

それから僕は、東京と北海道を何度も行き来するようになる。母は意識も戻り、半身不随にはなったが、会話もできるまでに回復した。父は母が退院してからも、毎日ずっと介護し、いつのまにか一緒に暮らしていた。そして、僕はそんな母と父の姿を見ているうちに、ふるさと・東京に帰ることを考え始める。

41歳の秋、14年お世話になった十勝毎日新聞社を退職し、僕は東京へ戻った。

東京に戻った僕は、六本木にあった小さな広告会社に入社した。企画編集部長として着任するも、その10カ月後にリーマンショックに襲われる。不況の風は、広告業界を直撃した。僕は企画編集部の解体を社長に進言した。もはや紙メディアに固執する時代ではないし、部下たちの新たな居場所を確保しなければならない。僕はコミュニケーションプランナーとして、一人部署に追われた。「自分の給料分は、自分で稼いでこい」と社長に言われた。

コミュニケーションプランナーというと多少聞こえがいいが、行ったのはまず営業活動である。電話営業、自治体の実施する企画競争への参加、飛び込み営業もやった。営業だけでなく、調査、企画づくり、コンサルテーションから印刷物の制作まで、いわばなんでも屋だ。その仕事の足腰の強さは、リクルートと十勝毎日新聞社で鍛えられたものだと思う。しかし、天才や強運の持ち主じゃあるまいし、そう簡単に成果は出なかった。

帝京大学の仕事と出会ったのは、そんなときだった。渾身で仕上げた企画書のある1ページを、大学広報責任者のKさんが褒めてくれた。それがきっかけで、帝京大学体育会の活動を放映する「Teikyo TV」の制作・運営を任せられることになった。この仕事は、僕にとってとても大きかった。その後の僕の人生観を変えるような仕事になった。特に帝京大学ラグビー部との関わりは、忘れられない。ラグビー部の日常を追いかけ、大学選手権3連覇の偉業に立ち会い、やり遂げるチカラに感動した。彼ら学生の指導者である岩出監督のすごさに惚れ込み、出版をプロデュースできたのも僕の人生の宝物になった。

2011年3月11日、東日本大震災。僕は46歳になっていた。
このとき、僕の中で、何かが変わった。津波にのまれる東北の映像を目にしたとき、僕にはもっと他にやることがあるのではないか、と思った。僕のほんとうの居場所はどこか。人生の行き先はどこか。このときから、僕の人生の流転がはじまった。大震災から9カ月後、僕は会社を辞めた。もう会社員は卒業しようと思った。

そうして、2013年。僕は、走り始めた。
初マラソンは、ホノルル。レース直前に疲労骨折に見舞われたが、なんとか完歩した。9時間以上の、実に長い旅だった。そのとき、フルマラソンを走り続けることが、僕の人生の目標になった。

50歳を過ぎた。人生の流転は続いている。以前よりもずっと加速度を増して。だけど、僕はマラソンを走ることだけは続けている。ゆっくりと、一歩一歩。

(了)※適宜、加筆・修正していきます。

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